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結婚への決意


  2001年になると、林は輸出部の営業四課に所属するようになった。仕事は中国市場の開拓と通訳の両方であった。

 その後、仕事が急に忙しくなって、特に水曜日が七時半に英会話教室に着くのが難しくなった。奈々子も同じく水曜日の授業が来たり来なかったりしていた。土曜日は二人がデートも兼ねて毎週出ていた。

 「半年の授業は身につけるものがほとんどなかったね。お金の無駄だったかな」奈々子が林に悔しそうに言った。

 「英会話はほとんど身につけてないけど、ナナが身についたからお金の無駄ではないと思うよ。」林の答えは奈々子の笑いを誘った。

 2001年の2月中旬頃、林、奈々子、忠司と祐子が4人一緒に食事した。林は祐子を忠司に会わせるのが最初から乗る気がなかったが、奈々子に強要され、いやいやながら食事会を設定した。その後、二人がしばらく交際した。しかし、3ヶ月後に二人は普通の友達になったよと忠司から聞いた。林はその結果を最初から納得していて、それ以上詳しいことを聞かなかった。

 林と奈々子の関係は順調に進んでいた。平日は一回ぐらい一緒に食事したり、飲みに行ったりして、土日の一日が林と一緒に過ごすのが日課になった。海外への旅行はまだ行ったことはなかったけど、日本国内の色々なところに出かけていた。喧嘩は何回かしたけど、それほど問題になっていたのではない。奈々子は結婚を意識するようになった。「三十まで結婚するって昔からの夢」とか、「最近同僚のなになにちゃんが結婚した」とか、「結婚したい」を直接に言ったことがなかったけど、「結婚」という単語が奈々子の口からよく出たようになった、ということは林が感じていた。林はもちろん奈々子の気持ちを分かっていた。林はゆくゆく奈々子と結婚することは考えていたけど、最後の一押しがなかったか、奈々子の「結婚」という単語につづきを言わなかった。

 2001年の春から小泉政権が誕生したあと、靖国神社参拝などの問題で日中関係がぎくしゃくになった。日本国内の嫌中感情と中国反日感情がマスコミとネット世論の煽りに相まって、林にも暗い影を落としていた。S社の社内では、林の声価が高く、少なくとも林の前に中国の悪口を言う人はだれもいなかった。しかし、会社が出ると、中国人という国籍が分かっただけで、決して直接的に言葉と行動で表すことではないが、嫌な雰囲気になってしまうのが林は何度も経験した。出張で中国に帰ると、靖国神社がどんなところであるか、なぜ小泉が靖国神社の参拝に拘るか、といった質問はしょっちゅう聞かれていた。「君は優秀だし、中国人だろう。日本の会社じゃなくてうちの会社で働かないか」というオファーが取引のある中国企業の社長に言われた。林は基本的に中立的な立場にするか、無視するか、そういった敏感な日中間の問題を避けていた。奈々子は林の微妙な立場を理解しており、たまに林が鬱憤払いで文句を言ったとき、黙って林の話を聞いてあげた。日中関係の緊張はS社の中国市場での事業開拓に大きな障害となった。日本企業と聞かれるだけで門前払いされたのが林は何度も経験した。飲料事業は早い段階で進出しブランドも浸透したから、順調に売上を伸ばしたけれども、薬品関連などの事業は鳴かず飛ばず状態だった。

 四月上旬の土曜日の午前中、林はいつものように奈々子と過ごしていた。

 「今度のゴールデンウィークはどこに行きたい」林はパソコンをいじっていた奈々子に話をかけた。

 「海外にいきたい。テーブルにパンフレートを持ってきたから見て」

 「どこがいい」

 「4日間しか連休とれないから遠いところはいけないよ」

 林はテーブルにあったパンフレートをパラパラとめくったと、束の最後に何枚の結婚式場のパンフレートと「ゼクシィ」という結婚情報誌を見つけた。それの意味は言うまでもなかった。林は雑誌を取り出し、無意識的にめくった。

 「上海に行きたくない」林は急に奈々子に言った。

 「もちろんいいよ」奈々子は林の実家がある「上海」に行く意味が十分理解していた。パソコンをやめ、林に顔を向けた。

 実は夕べ、林は上海にいる姉から電話をもらった。お父さんの持病の高血圧が最近非常に不安定になり、先週一週間ほど入院した。命には別状ないけど、林は親の死を意識しなければいけなくなった。

 「おいで」

林の横に座った奈々子の手を握り、ゆっくりと聞いた。

 「僕と結婚したいの」

 「あれは同僚の麻実ちゃんからもらっただけよ」奈々子は林の手に持った雑誌を見て蛇足を加えた。

 しばらくすると、奈々子が言葉を詰まらせながら言った。

 「ミンならついていけると思った。でも、ミンを急かすつもりないけど」

 林は胸に奈々子を抱きしめ、頭をなで下ろした。

 「もちろん僕もナナと結婚したいよ」

 林は決心してようやくこの言葉を口にした。別に奈々子と結婚したくないではないけれども、いざ決断を迫られたとき、何か今まで大事なモノを失ってしまうような漠然とした心の空しさを感じ、奈々子のほのめかしに今まで逃げてきた。

 「ナナは俺の女だ」と林が清々しく思った。

 「別にすぐ必要はないけど、ナナと結婚するという言葉をミンの口から言ってもらいたい」奈々子は林の胸の中に泣きじゃくっていた。

 「子供は何人ほしい」

 「ミンが何人ほしい」

 「二人かな、俺みたい男とナナみない可愛い女の子」

 「二人にしようね」

 「でも、きっと家事を一杯やらされるな」林は冗談のつもりで言った。

 「そうね。ナナ働くから、家事をしてもらう代わりに、給料は全部家計に入れるよ。中国式にしようね」奈々子がまじめに話した。奈々子が付き合う前に交わした言葉をしっかり覚えていたことに、林は正直びっくりした。

 「上海に行く前に、お母さんに会ってみないか」

 奈々子のお母さんが奈々子と林との付き合いに反対されている、ということは林が知っていた。でも、自分が人の娘をもらうから、いずれ頭を下げて行かないといけないのも分かっていた。

 「いいけど、びびるだろ」

 「ナナのためと思ってね」

 「前の日からきっと寝れないな。今日から酒飲もう」

 「ミンはこんな臆病には見えないよ。心配しないでナナがそばについてるから」

 奈々子が微笑みながらキスを求めてきた。

 翌週の日曜の夜、林が奈々子の家で食事することになった。



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