林は背広の上着を脱ぎ、持ってきたお土産をソファの横に置いて立ったまま部屋中を観察していた。
「よく来たぞ。こっちに来なさい」和風テーブルの椅子に座った中年男性が林に話をかけた。
「初めまして、奈々子の叔父の正道です」中年男性が自己紹介し、座ったまま林に軽くお辞儀した。
「初めまして。林と申します。宜しくお願いします」林は深く一礼して自己紹介した。
「緊張しなくて結構、座りなさい」中年男性が京都弁なまりで標準語を喋っていた。
中年男性は奈々子のお母さんの弟で、京都市内に和服の用品店を営んでいた。奈々子の親が離婚した後、叔父が時々奈々子の家に顔が出し、子供の時から奈々子をよく馬鹿にしていて、奈々子は叔父に好感を持っていなかった。叔父が袴姿で、小太りの体格に丸い顔、整髪剤で髪をオールバックにきちんと揃っていた。黒い金属製の丸いメガネをかけ、肉付きのよい頬がつやよくピカピカと光っていた。
叔父の隣に奈々子が座り、その横に林が座った。ちょうどその時、奈々子の母が台所から来られ、奈々子の向こうの椅子に腰をかけた。
「奈々子の母です。奈々子がいつもお世話になっております。宜しくお願いします」奈々子の母が話した。
奈々子の母が袴に白い割烹姿で、小柄で卵形顔が奈々子とそっくりだった。化粧が濃く、顔が真っ白で、頬骨が高く張っていた。真っ黒の髪の毛が巻き上げられ、その真ん中にカンザシを一本で止めていた。耳に心地のよい声の割に、顔には笑いが一つもなかった。
「こちらこそ、奈々子にお世話になっております。お忙しいところ、私のため、こんなに多くご馳走を用意していただき、本当にありがとうございます」林は事前に用意した紋切り型の言葉で挨拶した。
乾杯した後、しばらく沈黙が続いていた。「林君がS社に勤めてるの」中年男性が切り出した。
「そうです」林は短く答えた。
「S社はなかなかりっぱな会社」
「会社は立派かもしれないけど、僕はそれほどではないです」
「奈々子とどのぐらいお付き合いしていたの?」
「2000年の十月から約1年半ぐらいです」
「そう長くないな。どこでお知り合いになったの、友達の紹介かね」
「違います。山科駅前の英会話教室で知り合いました」
「そうか。林君の日本語が上手な」
「ありがとうございます。日本に来てもう10年も経ったので、それぐらいはたいしたことではないです」
「たいしたものですよ。わしの知り合った中国人がみんな10年経っても日本のことさっぱりわかってない。君は特別だ」
「お知り合いはどんな方は分かりませんけど、僕は特になにか特別な者ではないです」
「君は中国のどこの辺」
「上海です」
「なかなかの大都市じゃない」
「大都市だけど、僕は京都みたいところがちょうどいいと思います」
「兄弟は何人」
「兄弟は二人です。上に姉がいます」
「親はご健在」
「ええ、父と母は上海にいます」
「お父さんがまだお仕事をしてらっしゃるの」
「二人とも定年退職しており、今は老後を楽しんでいます」
「それは林君の結婚を楽しみにしてるだろうな」
「その通りだと思います。何回もほのめかされていました」
「林君は今会社で何のお仕事をしているの」
「主に中国市場の開拓です」
「中国の市場も有望だし、S社をやってることだから、うちみたい小さい商売じゃ比べるようがないな」
「それは」
林は尋問されたように緊張していて、終始俯いてできるだけ簡単な言葉で答えた。酒も料理もほとんど進んでなかった。普通の会話が続いたから、林も少し緊張を解けていた。
「奈々子はわし唯一の姪。うちも男二人。子供の時からずっと奈々子を可愛がっていた」叔父が話題を変わった。
「絶対奈々子さんを大事にします」
「でも、結婚というのは、ちょっと古い考え方かもな、ワシは家族の結婚でもある」
「その通りです」林は相手が何を言おうと分からないので、とりあえず相槌を打った。
「でも、相手が中国人であることはちょっと考えにくいな」
林は一瞬耳を疑った。聞く勇気もなく黙っていた。
「過去に確かに戦争があったとはいえ、日本は巨額のODAを払ったじゃない」
林は黙っていた。中年男性が言い続けた。
「靖国神社はお国のために命を捧げた英霊を眠るところ、小泉首相が参拝するのがごく普通や。それは日本の文化。中国人はそれを到底理解できないだろう」
林は心の中腹立つようになってきたが、冷静を装って静かに聞いた。説教が続いた。
「それに、中国人ははっきり言って民度が低いわ。列に並ぶことは知らないし、礼儀もしらない。その上強欲。今は多少発展したが、民度の低い国家はいずれ崩壊する。ワシはそう思う」
林の内心は穏やかではない。その怒りがすでに顔に出ていた。横にいった奈々子が片手を出し、林の手を強く握った。中年男性の悪口がまだ続いていた。
「中国は日本の恩を仇で返し、こんな独裁国家がワシ大嫌い。林君が優秀だから、日本の水を10年も飲んでたから、早く中国の国籍捨てなさい。林君も反日教育を受けただろう。日本に来て見たから、全く違うだろう。あんな教育あかんわ」
「中国のことはどうであれ、林さんは別ですよ」そばにいた奈々子が我慢できなかった。
「大人が話してるから、子供が黙りなさい」ずっと話してなかった奈々子の母が厳しい口調で奈々子を叱った。
「ワシが中国人と親戚になるのがまっぴらごめんだ」
中年男性が一口酒を飲んで、穏やかな口調で話を続けた。
「君ら二人まだ若い、結婚などのことを考えるのがまだ早い」
林の頭の中は真っ白になった。反対されるのが覚悟したが、そこまで中国人を蔑視するのが到底考えたこともなかった。横にいた奈々子も涙ぐんでただ茫然としていた。今日のすべては奈々子のお母さんが娘の結婚を反対するために、仕組んだ罠だと林は悟った。その後、何が言葉を交わされたのがまったく覚えてなかった。ただただ、この場から逃げたくて、それだけを考えていた。
林にとっては日中のぎくしゃくした関係に巻き込まれるのがある意味では運命的な定めだった。たまに奈々子の前で強がりを言ったりするが、林の一番繊細な所でありながらも解決しようもない問題だった。今までむしろ逃げられない運命に見ないふりをしてきた。林は一番繊細な所にストレートに矢が刺された痛みと苦しみに到底対処しようもなかった。
いつ奈々子の家から出たか、林は全く覚えてなかった。奈々子に送られ、家を後にした。
二人はただ黙っていて、林の家に向かった。
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