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お別れ


 林はなかなか寝つけなかった。妊娠のことやどうすれば奈々子を説得できるかをあれこれと思い巡らして、結局うとうとになったのが明るくなってからだった。

水曜日と木曜日はいつものようにメールと電話でやり取りしていた。林は週末にもう一度ゆっくり話そうと思って、メールと電話の中に妊娠のことをあえて触れなかった。しかし、金曜になると、急に連絡を取れなくなった。土曜日も日曜日も携帯にかけても一日中留守電だった。林は嫌な予感がした。ようやく連絡を取れたのが祭日の月曜の午後だった。

 「何かあったの」林が聞いた。

 「ちょっと用事があって電話に出られる状態ではなかった」

 「病院にいったの」

 しばらく沈黙し、奈々子が答えなかった。

 「今から会えるの」林は急かした。

 「実は金曜に母と一緒に病院に行った」

 「手術したの」林は最後の希望を託した。

 「ハイ」奈々子が無力に答えた。

 「お大事に」林が脊髄反応的に言った。

 言った後、奈々子の返事も聞かず電話を切った。

 すべてが終わった。

 秋の長雨が9月末からずっとしつこく降り続いていた。雨のせいか、5時ぐらいになると、周りがすでに暗くなり、部屋が中にも暗くなり、冷たい雨と風が薄暗い部屋を覆っていて、余計に寒く感じてしまった。

 電話を切った後、林はベッドに座り込み、ずっと壁に向かってただぼうとしていただけだった。気がつけば、林は涙が流れていた。林が電気もつけず、奈々子との2年間の思い出にふけていた。二年前同じ季節、同じ天気、同じ部屋で奈々子と初めて愛を確かめた、ということを思い出すだけでぞっとした。偶然というよりも神のご冗談では、と林は皮肉に思った。奈々子の仕事のために中絶することを考えるだけで絶望し、怖ささえ感じていた。元もと別の世界で生きていた二人がたまたま運命のからかいで一緒になったが、蓋を開ければやはり別の人種だった、ということは林が思った。林にとっては「別れよう」という結論に達したのがそう難しいことではなかった。

 次の週、林は奈々子のことを忘れるために仕事に没頭した。十時以降にアパートに帰り、弁当を食べ、シャワーを浴び、睡眠誘導剤を飲んで寝る、というような生活が四日間続いた。

 10月19日土曜日、林は今もその日のことを鮮明に覚えている。

 長雨がようやく止み、久しぶりの秋晴れの天気だった。

 十時ごろに、林が奈々子に電話した。

 「もしもし、元気」

 「まあ、何とかね」奈々子はいつものように答えた。

 「今日来られるの」

 「いい天気だから、そとで食べにいこうか」

 「来てほしいよ、話したいことがあるから」

 「分かった。お昼をたべてから行くよ。待っててね」

 「分かった。まってるよ」

 奈々子が林のアパートに来られたのが午後一時ちょっとすぎだった。ワンピースにハイヒールという格好だった。中絶手術を受けたせいか、顔色が悪く、化粧もほとんどせず、身なりもいつもと違ってきちんとしてなかった。

 「体大丈夫」林が切り出した。

 「何とかやっていけるかな、あと一週間もあれば」

 「痛かった」

 「手術の時、麻酔が効いたから無感覚だった。夜になると、お腹が落ちるような痛みだった」

 「それは大変だったね。お母さんと一緒に病院にいったの」

 「そうね、だれかサインしてもらわないと。相談しなくて悪いね」

 「じゃこれからどうする」林はいきなり核心問題に迫った。

 「何のこれから」

 「僕たちのこれから」

 「ミンがどうしたいの」奈々子がちょっとこわばった顔で聞き返した。

 「別れましょう」林は落ち着いて話した。

 「わかれる、それは絶対いやよ」奈々子が事態の重大さをやっと理解した。

 「僕はナナとやっていける自信がないよ、ごめん」

 「ミン、相談もせず病院に行ったのが謝るから許して、ごめんなさい」奈々子が慌てるようになった。

 林は答える気がなかった。

 「ミンも日本長いから分かるだろう。日本で女性が好きな仕事をやり続けるってどんな難しいか、知ってるでしょう。だから、許して、ミンの子供なら何人も産んであげるから」奈々子が泣き叫んだ。

 奈々子の顔を見たくないか、心が動揺したか、林は無意識的に顔をそらし、沈黙し続けた。

 「この仕事が私とってどのぐらい重要か、ミン理解して。子供の時からずっと母の影に生きてきた。だから、ずっと独立しなくちゃと思ってた。今子供を産むと確実にリストラされるから、ミンは知ってたでしょう。子供を産んでも働きたいから今は無理と思ってた。私、誰の影の元で生活するのがもう絶対いやだよ。ミンが結婚しても働いてもいいって言ってくれた時、本当に嬉しかった」

 奈々子が泣きながら途切れ途切れに言った。体を丸くしてソファにしゃがみ込んで、もともと体の小さい奈々子が余計に小さく感じた。

 「ミン、ナナのこと、今も愛しているの」

 林は答えようとしなかった。なぜなら、自分も自分の本当の気持ちを理解してなかったからだ。奈々子が来るまで、林がいろいろな状況を想定して、脳の中にシミュレーションをした。今は遠い所から他人事のようにシミュレーションを見つめていたような感じだった。

 しばらくすると、林は現実に戻り、急に怒り出して言った。

 「僕の給料で生活するのがそんなに不安なの、それでも僕の給料安すぎるの。まったく」

 「そんなことないよ。ミンの給料は十分よ。それと私の仕事が別問題」

 「別問題って、相談もせずにね。その子、半分が僕のモノだよ」

 「何も相談しないのが本当にごめん。でも年末まで休みなんか取れないよ。ちょうど3連休だから、お母さんと一緒に行ったの」

 「今のN証券じゃなくて、子供を産んだら別の仕事をすれば、いくらでもあるじゃない」

 「ミンも大好きだけど、今の仕事が大好きよ。ミン、ナナの気持ちを理解して」

 「本当に君のことは理解できない。それに、君の母と叔父を思い出すだけでぞっとするよ」林は言いたい放題になった。

 「ミンは結婚して別居すれば我慢するっていたじゃない」

 「僕がどのぐらいストレスを抱えてるって分からないか。君と付き合うためにね。今まで君の叔父のようなことを言われたことがないよ。僕なぜ知ってもない中国人の責任を負わないといけないかよ」

 「叔父さんは確かにひどかったよ、ナナ、謝るよ」

 「僕、自分の女さえコントロールできてないよ、だろう」

 「ナナはその分お返しするから」

 「お返しって僕の子供を葬るってのことなの。僕の子供なら産むって言ったくせに」

 「私達、二年も愛し合ったでしょう。この体がミンのモノよ」

 「そうね、これは二年も愛し合った結果ってこうだか」

 「ミン、なぜここまで怒るか、理解できない」

 奈々子も段々興奮してきた。1時間以上、二人が口論していた。二人とも理性がもうどこになく、ただ相手にヒステリーに鬱憤を晴らすだけだった。

 口論したせいか、ずっと泣いたせいか、奈々子の首と顔、そして目が真っ赤になった。顔に涙と鼻水が一緒になり、後悔、悔しさ、興奮、怒り、無力、すべての気持ちが混ぜたような見苦しい顔で、両手も緊張で震えていた。林も極度に緊張し、部屋中に無意味に行ったり来たりしていた。

 奈々子は今回のことが最初から深く考えていなかった。トラウマのように今の仕事を続けたいだけを考えて、林の気持ちを考える余裕はなかった。結婚を反対した母に急かされ、水曜の夜に急遽病院に手術を受けることを決めた。手術を受けた後、ベッドの上に林のことを考えて多少後悔するようになった。後で謝ればミンがきっと理解してくれると奈々子は思った。しかし、今日の林の別れ話に本当に驚き、そこまで林が傷ついたことを理解できなかった。

 林は何度も奈々子を許そうと思ったが、赤ちゃんのこと、奈々子のお母さんと叔父さんのことを思い出すと、すぐに許せなくなった。子供と仕事の間に、そこまで今の仕事にこだわるのが理解できなかった。

 口論で疲れたか、奈々子がソファにもたれて、しくしく泣いた。

 二人の間、長い沈黙が続いた。

 気がつけば、3時間以上経った。

 「荷物を片付けましょう」林は泣き止んだ奈々子に言った。

 奈々子が諦めたか、俯せたまま林と一緒に荷物を片付けた。歯ブラシと何枚の下着以外、奈々子の物がそれほど多くなかったから、片付けがすぐ終わった。

 林の目の前に奈々子が弱々しく可愛そうな奈々子を見て、一瞬許そうと思ったが、でもすぐにこの考えをやめた。

 「もう一回ナナを抱きしめていい」林は聞いた。

 奈々子が状況を理解できないまま頭を少し縦に振った。

 林は奈々子をきつく抱きしめた。抱き慣れた奈々子の細い体、肉付きのよいお尻、彼女の匂い、明日になると他人になってしまう、ということを思うと、心が虚しく感じた。肺一杯奈々子の匂いを吸い込み、しばらく奈々子を抱きしめた。奈々子がまた声を出して泣き、林の胸の中にじっとも動かなかった。林は自然に奈々子の額と目に軽くキスした。奈々子の生温かい息が林に伝わり、奈々子は口が開いたまま林を待っていた。2年前、同じ場所、同じ季節に初めてキスしたように、二人が濃厚なキスを交わした。

 しばらくすると、林は自分に戻り、奈々子にわかれの言葉を告げた。

 「酒本さん、お元気で、いい男と結婚して、仕事も頑張ってね、さよなら」

 奈々子が放心状態になってしまった。

 奈々子がどういうふうに帰ったかが林は全く覚えてなかった。だた、奈々子が帰った後、林は声を出して泣いた、長く泣いた。

 その日の夜、二年ぶりにヘビ妖怪の夢を見た。


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