「それは考えたことはないですね」林はちょっと考えてそれ以上の答えを見つからなかった。
「家事ができるとか、社交的とか、いろいろとあるじゃない。中に一番気にしているのは何ですか」
「一番はもちろん気があうことでしょう。楽しくないと、長続きしないでしょう」
「他は」
「家事はある程度できないと、生活レベルが維持できないから、重要かな」
夏美は顔が強ばって俯いてしまった。落ち込んだ夏美を見て、林はすぐに付け加えた。
「家事なんてやる気があればすぐできるよ。僕だって、日本に来て、一人暮らしになってからできるようになったから、やる気が問題ですよ。その上に僕も手伝うつもりです」
「私みたい家事が全くできない女の子も大丈夫ですか」夏美が一本の命綱を掴もうと、頭をあげ、林に急いで聞いた。
林はばつが悪そうに苦笑いした。さすがに否定できないから、戸惑って黙っていた。
「やばり、だめか」夏美がまた落ち込んでうなだれた。
「埜々村さんは頑張ればきっといいお嫁さんになれますよ」林は夏美を慰めた。
夏美が落ち込んだままだった。
「夏美がきっといいお嫁さんになれるよ」林が慌てて付け加えた。
「私みたい、何もできない女の子がお嫁にいけないね」夏美が嘆きながら生ビールの取っ手を指で遊んだ。
林は子供っぽい泣きそうな顔を見て思わず、「プッ」と笑った。
「埜々村さんがいつもこんなに自信ないですか」
「夏美と呼んでください」
「わかった。夏美さん」
「元々自信がないよ。なんでもできる林さんの前では余計に自信なんかないよ」
「そのまま話を続けると、夏美がどうなってしまうだろうな」と林は内心困った。
手の打ちようがない林はちょっと考えて今の状況を止めようと思って言った。
「夏美さんとはまだ一ヶ月ちょっとでしょう。僕がどこまでできるかがわかるはずないでしょう。良い面ばかり見ると、正直僕も困ります」
夏美が自分の失態を理解したか、手で目に含んだ涙を拭き、自分に戻った。
「ごめん。ごめん。ついに高ぶったから、申し訳ございません。」
中村課長のこともあって、林は目の前の夏美に手を焼いていた。その積極的な態度が林を困らせながらも母性本能を刺激し、守ってあげたい気持ちが少なからず芽生えていた。
「夏美さんが家事できるように、良いお嫁さんになれように、乾杯しましょう」
夏美が泣きそうな顔で笑った。
その後、二人が話題を変えて話していた。翌日の林の出張もあって、2時間ぐらいで二人が店を後にした。
2月の冬の季節だが、外は風もなくそれほど寒く感じなかった。木の葉っぱがすっかりなくなり、歩道には枯れた落ち葉が少し残ってあった。十時前とはいえ、山科駅前はまだ賑やかだった。
二人が並んで歩いていた。
「今日、ごめんね。大失態になって」夏美が恥ずかしげに言った。
「乙女心ってピュアだから、大失態なんか言わないで」林は大人らしく言った。
「頑張ります。いいお嫁さんになります」夏美が片手を小さなガッツポーズしてまじめそうに言った。
「自信よ、自信があれば夏美さんきっとできると思います」
夏美が楽しそうに笑った。
「出張から帰ったらまたデートしてもらえますか。林さんと一緒にいると落ち着きます」
逆だったらきっと大顰蹙だろうなと思いながら答えを考えていた。
「喜んで」林はオーケーした。
夏美は大好きなチョコが食べられるようになった子供のような満面の笑顔だった。
「林さんのお嫁さんになるために頑張ろうかな」夏美が小さな声で甘ったるく言った。
林はもうすでに諦めていたから、何も答えず苦笑いするしかできなかった。
反応のない林を見て夏美が左の手を出して林の右手の指先を軽く握った。林は本能的に逃げた。
この小さな動作のせいで、二人の間に気まずい空気が流れ、しばらく沈黙が続いていた。そうしている間、二人が山科駅についたが、夏美が改札口に入ろうとしなかった。
目の前の夏美が嫌いではない、ということが林は分かっていた。
「ごめん、別に夏美さんが嫌いではないよ」林が謝った。
夏美が泣き出して、何も言わなかった。
「まだ一ヶ月ぐらいしか会ってないので、ちょっと早いじゃないか」林が付け加えた。
泣きやまない夏美を見て、林はさらに理由を説明した。
「中村課長のこともあって、なんか僕が経験のない夏美さんを弄ぶと言われるからね」
十時頃とはいえ、駅の改札口にはまだ沢山の人が出入りしていて、林は夏美を隅に誘導した。夏美が泣き止む気配がないまま、時間だけが過ぎていた。
「夏美さん、何か言って。こっちがめちゃくちゃ困っているよ」林は手が焼かれて怒りっぽく言った。
やっと、夏美が頭を上げた。満面の涙だった。
「話を聞いてもらえるの」目に涙を含みながらかわいそうに言った。
「どうぞ、なんでも聞くよ」
「馬鹿と言われても仕方がないけど、私大分前に占いをしてもらったの。その時、占い師に30才前に外国人の男が現われ、その人が私の運命の人って言われたの。さらに、早く掴まらないと逃げてしまうとも言われた。だから、必死に頑張ってる。林さんに迷惑をかけてごめんなさい」
林が目を大きくして何も言うことができなかった。「自分を好きになった理由って占い」と思うと、ビックリよりも呆れた心境だった。
「やはり、私って馬鹿ね。占いのことを真剣に信じてしまって」夏美が泣きながらまた俯いた。
「でも、占いのことがなくても、私、林さんのことが好きです」夏美が小声で言い続けた。
突然の告白に林は正直頭が混乱になってしまった。これからのことも考えなければいけないのもわかっているが、いきなり言われると、どう答えるかを迷っていた。奈々子と別れてまだ時間が経てなかったこともあって、恋愛や結婚といったことに対してかなり消極的になっていた。夏美が嫌いではないのが真実だったが、男女の関係、あるいは結婚前提で付き合うことになると、どうしても踏み出す気持ちにはなれなかった。もうちょっと時間をかけて考えようと思っていたが、満面涙の乙女の前にして、そうはいかないことを全て物語っていた。しかし、献身的に愛してくれた夏美を断ることは男として林はできなかった。そう思うと、夏美を愛しく感じ、やってみようという気持ちが湧いてきた。
「実は僕も夏美のことが好きですよ」林は夏美の両手を軽く握り、優しく言った。
夏美が泣いたまま、俯きながら頭を林の肩に寄せた。林は彼女の耳に軽くキスした。
「ここは外だよ」林は夏美の耳元にささやいた。
夏美が顔を上げ、満面の涙に愉悦な笑顔だった。林のコートに涙で出来たシミが残ってあった。
「僕は明日早いから今日帰りましょう」林はその後起こりうることを考えると、それを避けたいと思って別れを促した。
夏美がティッシュで顔を拭きながら頷いた。
夏美が別れを惜しみながら改札口に向かった。林は一礼してアパートに向かった。
3分も経たないうち、林の携帯がなった。夏美からのメールだった。
「今日、ありがとう。いいお嫁さんになるように頑張ります」最後に大きい真っ赤なハートマークが付いていた。
林が携帯を握りしめ、奈々子のことを思い出し、大きな困難を乗り越えたような清々しい気持ちだった。奈々子と別れてから恋愛や結婚のことを考えたくなかったより、考える勇気がなかった。林の凍り付いた心が夏美のピュアな愛の前にいとも容易く温められるようになった。夏美に感謝の気持ちで一杯だった。
「こちらこそ勇気をもらってありがとう。お休み」夏美がその理由を理解できるようもない、ということは林が知っていた。
「お休みなさい。明日気をつけて。出張から帰ったら連絡してね」夏美の返信がすぐ届いた。
林が言葉に表せない心地よい気持ちだった。
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